【ネタバレあり】劇団四季のリトルマーメイド見てきた
批判バッカは恥を知れ
こんにちは!!進撃の巨人にはまりすぎてうっかり最新巻の11巻を買ってしまいました!!あの漫画は、巨人もいいんだけど、人間の中身に対するツッコミ(「お前そんなこと言ってほんとは自分が一番かわいいと思ってんだろ?」みたいなやつ)がキレッキレです!!ぐさっときます!!ごっつおもろいっす!!ガストンです!!
1.生産性のない批判をする人っていると思うんス。
批判することと愚痴をこぼすことと何かを嘆くことは何一つ生み出さない行為だということを常々思っていましてね。なんか僕こんな記事ばっかですね。今日地元のお祭りに行ってきました〜!!みたいなブログっぽい記事全然書いてないっすね。まいいや。
多くの日本人に見られる傾向だと思うんすけど、第三者が首をつっこんで、誰かのちょっとした抜け目や落ち度を見つけてはみんなでに一緒になってやいのやいのと批判する。芸能人のスキャンダルとかはその典型的な例だと思うけど、身近な例で言えば「教授の教え方の下手くそさ」とか「クラスのアイツの空気の読めなさ」とかさえその一種だと思うんすよ!誰かのだめなところを叩くという行為は「みんなでやれば怖くない」らしく、誰かが言い出した途端に自分も言いやすくなる。乗っかるだけだからね。
例えば教授の教え方の下手くそさを学生が教授の見てないとこでいくら議論しようと何も変わらないでしょ?誰かの空気の読めなさをみんなで愚痴ったところで何も変わらないでしょ?むしろいじめに発展しそうで怖いし、そんな小学生あるいは小学生みたいなことを未だにやってる主婦のおばさん方みたいな行為やめなされ。ちなみに「複数人による中身のない行為によって誰かが傷つく」ことをいじめといいます。
少々脱線しました。もっというと、僕は1年前、ある舞台制作団体でトップの役職についていました。舞台の脚本と演出を担当し、80人のスタッフの顔と名前を覚え、常に全員から意見を集め、批判されるときはサンドバッグになっていました。舞台の最終決定権をもつ人間が舞台に関して素人だった場合、舞台をよくするために、全員から意見を集めて取捨選択することが重要だと考えていました。
そんな中でも生産性のない批判をする人は少なからずいました。もちろん、そうでない人もいました。というか80人中、事務係などを除いてほぼ全員が舞台を作ることに関わるのですから、みんな何かしら意見は持ってるわけです。そこに生産性があるかないかの違いだけです。
2.では批判、愚痴、嘆きに生産性があるかないかの違いはどこから生まれるのでしょうか?
それは、「どこまで向き合えるか」です。要はみんな、めんどくさいんです。意見があって、それをトップの人に言うのは簡単だけど、そこから議論に発展したとき、その議論に何時間かけられるか。作業の合間の休み時間に話し込み、休み時間で終わらず放課後個人的に会って話し込み、それでも終わらず夕ごはんを一緒に食べながら話し込み、それでも終わらずお互いの同意が得られれば泊まりこみで会議もする。それでも終わらず、そんなことを何日も続ける。会うことに時間が避けないときは長文メールや電話のやりとりを長時間する。これが「向き合う」ということです。
実際に、何日間もうちに泊まりこみ、会議を一緒に重ねてくれた仲間も数人いました。その人たちは、演出に大して随分不満を持っていて、こんな舞台は作りたくないと思っていて、だから変えようと思って、トップにいる僕と向き合ったのです。こいつ1人に任せてたんじゃダメだと思ったのでしょう。どんなにめんどくさくても、何十時間と会議を重ねたのです。実際に演出は大きく変わり、他の「演出に不満はあるけどそのために何十時間も割くことはできない」と思っていた多くの人たちからも「変わってよくなった」という"評価"を頂きました。ま、彼らが変えたわけじゃないんですけどね。
何十時間と時間を割いて僕と向き合った人は、実際に変えたわけです。すごくないすか。変えたんスよ。変える権力をもつ人間の意見を変えさせて、自分がいいと思う方向に少しでも近づけたわけです。すごくないすか。
今、僕は自分が所属していた舞台制作団体を例に出しましたが、批判、愚痴、嘆きばっかりする人たちに生産性があるかないかの分かれ目は「向き合う意思があるかどうか」だということは、「教授の教え方の下手くそさ」とか「クラスのアイツの空気の読めなさ」とかを議論する際についても同じです。
批判している相手がどんなにダメか、どんなにでくのぼうか、どこがどうダメなのかなんてどうでもいいんです。僕が泊まりこみでスタッフと演出会議を重ねていたときにそんな話は一切しませんでした。生産性がないからです。大事なのは「じゃあどうすればいいか」です。
3.ではなぜ向き合う気力のない生産性のない批判ばかりする人たちは、それを続けるのか。
なぜ「誰のどこがどうダメ」かばかり話し、「じゃあどうすればいいか」をあまり話さないのか。話したとしても、それを当事者に伝えないのか。それじゃ何も変わらないとわかりながらも生産性のない会話を重ねるのか。
なぜならそこに自己満足という生産性があるからだ。結局、「言うだけ言って満足」な人が多い。嘆いて、特に「おれもそう思う」と言ってくれそうな人に対して嘆いて、同意を得ることによって「ほらやっぱり僕の言ってることは間違ってない」という安心が欲しい。自分の意見に賛同してくれる人たち同士が群がって安心を得る。いじめっ子が集団になっていじめるのと理屈は同じだ。だがこれじゃ何も変わらない。
何かを変えようとしたければそこに風穴をあけて自分たちにない意見を持つ人間の声に耳を傾けなくてはならない。それがどんなにそれっぽくて、論理的で、的を射ていて、今まで築きあげてきた自分の中にある確信と安心を揺らがされるようなものであっても、言っている内容だけを客観視して間違っていないと思ったらそれに賛同し、自分の今までの意見を切り捨てる。議論とはそういうものだ。
4.ちなみに、日本人全体には「向き合うと負け」「行動に起こすと負け」な風潮が見られます。
誰もが知っているように日本人は空気を重んじます。「こういうことするとこう思われるよね」という観察力が非常に重要で、学校でこれを学ばず勉強ばかりしていた陰キャラと呼ばれる人が大学で「コミュ力」のある人達に対して言葉にならない敗北感を思い知らされるということが多くあるのは事実です。観察力が陰ながら重要視されるのは就職後も一生、日本にいる限り同じです。
そして空気を読んでいると、「大多数の一般論と異なる意見は公言しない方が身のためだ」ということがすぐにわかります。「10人いて、9人と1人で意見がわかれている」という状況をこの国ではよしとしていません。個人の意見よりも場の空気が尊重されています。それが当たり前すぎて、誰もが「こう思っているのは自分だけ?ならここで言うのはやめとこう」という自己防衛の技を身につけています。そういう場合は別の場所で発言し、同意を得て、周りから固めていくのがこの国での"王道"だと僕は思っています。文化そのものに反対して嘆いていても実際には何も変わりません。
とにかく批判されることを恐れてみんな一般論を口にし、自分で考えて思う自分の意見というものを持たない。持っても言わない。そうしてみんな、ツッコミどころがない記事、すなわち何も自分の意見を語っていない記事を書くようになる。例えば、「今日地元のお祭りに行ってきました〜!!」のように。(←進撃のガストン今日もキレッキレです!!!!)
お前そのメモどうすんの
こんな引き継ぎ資料はだめ
こんばんは!突然ですがここでガストンクイズです!!問題:気づかないうちについつい棚の上に上げてしまうものってなーんだ?答え:「自分のこと」…ガストンです!!
こないだ、学校のあるイベントの引き継ぎ資料を作成しました。引き継ぎ資料とは、自分が今年やってみて反省したことなどを来年同じイベントをするときに後輩に役立ててもらうための資料です。
僕は自分が担当したwebに関する引き継ぎ資料を書く前に、他の人が既に書いた引き継ぎ資料をちらっと読んだんですが、正直、「これじゃあ読んだ所で注意を促すだけで終わってしまうのではないか」と思う引き継ぎ資料が多かったと思います。
こういう文章には意味が無い
こういう文章を引き継ぎ資料やその他いろんな場面で使う人がいますが、まるで意味がないと思います。
・どっちつかずの意見
例えばこんなものです。
「こういうことがあって困った。このときこうしていればよかったと思う。でもそうなると今度はあれがああなってしまう可能性があるのでそっちも気をつけないといけない」
こういった、どっちつかずなことを言いたくなる気持ちはよくわかりますが、こんなことを言われても「じゃあ結局どうしろっていうんだ」となってしまいます。
引き継ぎ資料を作る人には、一度経験した者として「どっちをとるべきか」という決断をする責任があります。後輩は、こんなどっちつかずの正論を聞きたいんじゃありません。「もし先輩が来年もするとしたらその時はどうしたいですか?」という問に対する明快な答えが欲しいのです。
・抽象的な表現
抽象的な表現とは、例えば次のようなものです。
「もっと早くから始めておけばよかった」
「もっとしっかり決めておくべきだった」
「もっと愛想よく、大きな声で挨拶した方がよかった」
「想像以上に予定がずれることが多かった」
「できるだけ定期的に先生に聞くべきだった」
これらは、全く意味がないとは言いませんが、後輩が読んだ時にピンと来るかと言えばそうではないでしょう。
「もっと」「早く」「しっかり」「案外」「意外と」「できるだけ」「定期的に」「徹底する」などなど、こういう抽象的な言葉を使いたくなる気持ちもすごくよくわかりますが、後輩がこういう文章を読んでも「先輩はその時そう思ったんですか〜」と感じるだけです。もし「わかりました!早め早めに動きますね!!」なんて納得したように言ってる人がいたとしても、その人は具体的なスケジュールが組めていないことに危機を感じるのが遅い人です。
先輩方が平気でこういった抽象的な言葉を使ってしまえる理由は簡単です。 抽象的な表現自分たちが一度経験していて、それと比較して言っているからです。
「もっと〜」なんて引き継ぎ資料で言われても、後輩が読めば「どれと比べて『もっと』なの?」という疑問が浮かんでしまいます。去年の様子を知らなのだから仕方ありません。
「もっと」以外にも「早く」「しっかり」「意外と」などの言葉も、自分たちの経験をベースに発している言葉です。自分たちが一度経験した中で感じたことというのは、本人たちが思っている以上に膨大な量があります。先輩は「なんとなくわかるでしょ?」と思いながら書いているかもしれませんが、後輩には「全くわからない」のです。
・具体的でない提案
具体的でない提案もよくやってしまいがちですが、あまり効率的とは思えません。具体的でない提案とは次のようなものです。
「意思疎通をもっと頻繁にとるべきだった」
「忙しいときは周りを頼るべきだ」
「スケジュールは前倒しで組むべきだ」
これらは一見意味があるように見えて、具体性が一歩足りないため、実際には役に立たない場合が多いです。その一番の原因は、後輩が引き継ぎ資料を見るのは最初だけで、忙しい時期になってくると引き継ぎ資料よりも目の前の状況を見て解決策を考えるからです。
後述しますが、やっているうちに現実的なビジョンが見えてきます。「先輩が言っていたのはこういうことか」と気づくことが、イベント本番が近づくにつれてどんどん増えていきます。そうなってくると当人たちは引き継ぎ資料を掘り起こすことなど全くせず、今目の前で起こっている状況を見て、どうすべきか判断し、勝手に行動に移していきます。
そうなったとき、引き継ぎ資料でできることはやはり具体性を高めることです。単に「意思疎通をもっと頻繁にとるべきだった」と書くのではなく「1日1回は必ず全班と連絡を取り合うべきだった」と書いていればどうでしょう。
本番が近づき、当人たちが目の前のことをこなしていくことだけで精一杯になっていて、「できるだけ」をやることしか考えられなくなっている状況で、「先輩の反省」と比べることができます。先輩は「1日1回連絡とった方がいいよ」と言っていたな、今の自分はできていないな、じゃあやろう、と思い立つことができます。
もしこれが単に「もっと頻繁に」としか言われていなかったら、危機感を感じることはできなかったでしょう。具体性を高めることの最大の利点は、現在の自分と引き継ぎ資料を比べることができることです。
・「できれば」
引き継ぎ資料にこの言葉は使わないようにしましょう。先にも述べたように、先輩は後輩に「こうやった方がいい!」といってあげる必要があります。例えばwebなら、「スマホ用サイトはできれば作ったほうがいい」と言うのではなく「スマホ用サイトは必ず作ること!!」と言い切ってしまった方がより後輩の記憶に残る言葉になりますし、後輩もその重要性を理解することができます。
学生は怠慢なもので、「やらなくてもいいならやらない」くせに「やれと言われたらやる」傾向があります。
「できたら」を「やらなくてもいい」と受け止め、「やらなきゃだめ」はそのまま「やらなきゃだめ」と受け取ります。
また、「できれば」という言葉を使わずに文章を書こうと試みることで自分の意見をはっきりさせなくてはならない場面がいくつも出てくるはずです。
これにより、いっそう中身の充実した引き継ぎ資料になることでしょう。
文章は読まれるためにある、が、引き継ぎ資料は読まれることがゴールじゃない。
僕 が文章を書くとき常に気をつけていることですが、文章は読まれるためにあります。このブログでも、徹底的に読みやすさを考えながら書きます。でも引き継ぎ資料はただの文章 ではありません。そこには明確な意図があります。実際に来年のイベントをもっとよくすること、それが引き継ぎ資料のゴールです。
仮に後輩の方々にどれだけ熟読されたところで、このゴールを達成できなければ意味がありません。先輩の失敗を繰り返さないようにしながら毎年クオリティが上がっていくことを狙って引き継ぎ資料は作られているはずです。
ではそんな「実際に役立つ」引き継ぎ資料を作るにはどうすればいいか。
僕は、自分が担当したwebの引き継ぎ資料を書くときは色々なことに気をつけました。太字を入れたり文字の大きさを変えたりして読みやすくしたし、カテゴライズしてまとまりで分けて、まとまりの順番にも工夫しました。
見た人がパッと見て同じ大きさ、太さの文字が長々と書いてあるのでは読む気が失せてしまうと思ったからです。
自分が後輩に、何をどうして欲しいのか伝わるように工夫しました。この文章は誰に読んで欲しいのか、読んだからには何に注意して欲しいのか、できるだけ具体的に書きました。
webのことでわからないことがあれば連絡をくれるように自分の連絡先も載せました。すべて「実際に来年のイベントがよりよくなるため」です。
抽象的な感想より具体的なデータがものをいう
実際に役立つ引き継ぎ資料とはいったいどのようなものでしょうか。例えば、
【反省点】「会議が長引くことが多かった」「受付の練習が足りなかった」「スケジュールがかなり押してしまった」etcetc...
の ような「言われてもピンとこない」文章が続く文章よりも、「この日このデータを入稿した」「この日webをここまで公開した」など具体的な活動内容を書い たカレンダーや、「パンフレットは◯◯部発注して◯◯部さばくことができた」などの具体的な数字を伴うデータを見たほうがよっぽど効率的です。
では引き継ぎ資料はわざわざ文章を書かなくても、いつ何をやった、というデータだけ残せばいいのか、というとそうではありません。
ここで、引き継ぎ資料の本質を考えてみましょう。
引き継ぎとはビジョンを見せることだ
引き継ぎ資料には具体的なデータにプラスアルファでとても重要な役割があります。それはビジョンを見せる、ということです。
引き継ぎの、というか毎年あるいは定期的に行われるイベントが、毎年クオリティを上げていくには毎年同じ人たちがやるのが一番手っ取り早いでしょう。同じミスをせずにどんどん学習していくからです。しかしそれができない場合も多い。だから「経験」を 引き継ぐんです。引き継ぎ資料の本質は、来年初めてイベントをやる後輩にまるで去年やったかのような経験を与えること、つまりビジョンを見せることです。
箇条書きより「ストーリー」がいい!
ビジョンとは、言い換えれば現実味を与えることです。具体的なことを最後にまとめて箇条書きにするならまだしも、抽象的な言葉を箇条書きにすることはまるで意味がありません。意味がないのに箇条書きにするとたくさん書いた気になって役立ててもらえる様に錯覚してしまうのでタチが悪い。
僕は「こうする予定がやっているとこうなったので(反省)こうすることにした(改善点)が、最初からこうしておけばよかったと思う(改善点)」のように、ひとつひとつの具体例に対し一連の流れをつかめるよう意識して資料を作成しました。こういう書き方の方が、箇条書きよりも読み手に「想像力」を掻き立てると思ったからです。
具体的な例をひとつあげます。webの更新に伴うバグ確認を徹底しておくべきだったという文章を書いたのですが、これをもし箇条書きで書いてしまったら
【反省点】メーリスで手の空いている人はバグ確認をするよう促した
【改善策】バグ確認をする人をあらかじめ決めておくべきだった
という風になると思います。これでも十分意味のある資料だと思いますが、次のように書くとどうでしょう。
【バグ確認を徹底すべきだった】
バグ確認に関して、メーリスで「アップロードしたからできればみんな確認しておいてー」と呼びかけるだけという適当さだったため、あまりみんな積極的に確認してくれなかった。バグ確認をする人をあらかじめ決めておくべきだった。
この文章を読むと「メーリスを回しているのに、みんなあまり積極的に確認してくれないことによってちょっと落ち込むガストン」の姿が想像できるかもしれません。想像とまでいかなくとも、「『アップロードしたからできればみんな確認しておいてー』では確かにおれも確認しないかもー」という感覚を与えられるかもしれません。
このように、箇条書きではなくストーリー仕立てで書くと共感や想像を与える余地ができます。
あるいは会場受付の引継ぎ資料で、来場者が少なかったことを述べる文章を書くなら「あまり人がこなかった」「初日の午前中は5分に一組くるかこないかぐらいだった」
と書くよりも、
「基本的に受付から廊下を見渡していても来場者の姿はなく、見えるのは共通のTシャツを着ているスタッフのみだった。5分に一組来たらいい方だった」
と書いたほうが、「うわ、それは寂しい」と読み手が想像できるでしょう。
攻殻機動隊に出てくるような電脳を僕らは持っていませんから、見た映像を誰かにそのまま見せることはできません。しかし言葉を上手く使えばかなりそれに近いことができます。小説家が書いた文章を読んでいると、実際にそこには文字しかないのに、風景や心情をとても鮮明に想像することができます。
まとめ
想像以上に長くなってしまいましたが、まとめると
よい引継ぎ資料とは
具体的な改善案と、より現実的なビジョンを与えることができ、
それを読むことで実際にイベントのクオリティの向上につながる資料
だと言えるでしょう。
専門分野に壁を作るな
こんばんは。家の近くに24時間営業、コンセント、背もたれ、地下じゃない(持参のポケットWi-Fiが電波拾える)、を併せ持つマクドナルドを見つけて興奮気味のガストンです。
僕は、webサイトを作る、デザインを組む、という専門知識を持っています。まだまだ勉強不足だし偉そうなことは言えないけれど、少なくともwebやデザインの知識が全くない人から「わけのわからないことができる人」のように見られることも多いので、ある専門知識を持っているとは言えると思います。
こないだ武蔵野美術大学内で、あるイベントのweb担当をしていた時、僕がスタッフに「コーディングはおれがやるとして、デザインもおれ1人で考えた方がいいの?」と聞くと、「デザインも任せたい。webのことは全然わからないから」と言われました。
僕は疑問に思いました。webデザインやコーディングに関して全くの素人でも、グラフィックデザインをやっている人なら十分webデザインを考えられると思ったからです。
だって、誰でもwebサイトはたくさん見たことがあるじゃないですか。それらを見てたらwebデザインの基本のいろはが色々わかるはずです。ロゴが左上にあるサイトが多いなーとか、メニューはこんな風に置いたら見やすいのかー、とか、マウスオーバーした時に画像を差し替えられるといいよねー、とか。
そういうのをちょっと注意すれば、美大生ならどんなにコーディングの知識がない人でもwebデザインの案をphotoshopやillustratorで描くことはできるはずです。
もちろん、描いてからwebデザインとコーディングに詳しい人に見せたら何か指摘されるかもしれません。「webは左上から読むのが基本だからこのコンテンツは左に持ってきたほうがいいかな」とか「その動きをプログラミングするのは今のおれにはちょっと難しい…」とか。
なんせこっちは素人だからどんなことを言われるかわかりませんが、素人にとって大切なのは「わからないからやらない」のではなく「わからないからミスもあるかもしれないけどわからないなりにやってみる」ことです。
自分の持っていない専門スキルを持った人と一緒に何かするとき、その未知なる専門分野をできるだけ理解しようとすることはとても大切なことです。
これはwebデザイン以外にもすべての専門分野に対して言えます。
例えば、僕は以前舞台制作サークルで総演出をやっていたことがあります。あるとき照明班の会議におじゃましていました。僕は照明の知識については皆無でしたが、なんとなく照明というものに対して次のように理解していました。
・照明器具って要は天井にくっついてて舞台上を照らしているドデカい懐中電灯みたいなもんでしょ?
・色つきの半透明なシート(ゼラというらしい)を表面にかぶせることでカラフルな照明になってるんでしょ?
・そのシートは重ねたりして色んな色を出せそうだね〜でも重ねすぎると暗くなっていきそうだね〜
こんなもんです。他にもいくつかありましたが、僕の照明に対する見方は大体合っていました。
そして、僕は総演出として照明班の人にこんな提案をしました。
「色んな色の半透明シート(ゼラ)をハサミで細かく切ってひとつの照明器具に貼りつけたら色んな色が細かく混ざった照明になってきれいなんじゃないか」
発想としては小学生の図工のレベルです。懐中電灯でもできそうだと思ったからひらめいたまでです。でもこのアイデアは実際に照明班の人たちに「できるんじゃない?」と言われ、採用されました。「照明なんてただのでかい懐中電灯でしょ?」となめきって考えて正解だったと思います。
もしぼくが「自分は照明器具の名前も知らないほど専門知識が全くないから照明のことはよくわからない。だから自分なんかが提案できることなんてない」と考えて提案せずにいたらこのアイデアは形にならなかったと思います。
どんな分野にも「専門分野だかなんだか知らないけど、あれをああやってこうすることによってそうなっているのはわかる」という感覚があるはずです。その感覚を大切にすべきです。webデザインは「プログラミングとかいうわけわからない行為により出来上がるわけわからないもの」という認識をされているかもしれませんが、プログラミング言語はわけがわからないものだとしても出来上がるwebページのデザインについては十分理解できる範疇だと思います。
「webデザインなんて要は動くグラフィックデザインでしょ?図案だけならおれでもできそうじゃん」
それでいいんです。
専門分野を「専門分野だから」と言って最初から考えることをやめてしまうのはあまりにもったいないことであり、危険なことだと思います。栄養士が「この食材は体にいい」と言ったらその言葉に従いますか?その食材にはどんな成分が多く含まれていて、それが体にどんな作用を起こし、結果として体にどのような変化が起こりうるのかを知ってからその情報を生活に取り入れるべきです。
ーこの世に「専門分野」は"いくつ"あるでしょうか?
この問いに答えるのは難しいでししょう。どこから「専門」とするかが曖昧だからです。
「照明なんてデカイ懐中電灯でしょ?」「webデザインなんて動くグラフィックデザインでしょ?」
この精神で世の中の"専門分野"としっかり向かい合っていきましょう。
いっそ寝ないことにしてみた
こんばんは。目をつぶってまっすぐ歩けなかったら背骨が曲がっているそうです。こないだ試してみたら、全然まっすぐ歩けませんでした。きれーに曲がって行きました。僕の背骨もきれーに曲がっているということでしょうか。いいえ、きっとそれはまた別の話なんでしょう。なんだつまらない。でも世の中そういうもんだよね。ガストンです。
こないだ好きな教授のとこに相談に行ったとき、僕が弱音を吐いていると「寝ずに作業しろよ」と一喝されました。なんでも先生は、学生時代、ベッドで横になって寝るのは週に3回程で、それ以外は机で仮眠、とかだったそうです。そんな生活が4年続いたそうです。…勝てねえ。
また先生はこうも言っていました。「睡眠時間を確保している生活の中で空いた時間に課題してるけどお前ら、逆だよ。課題ずっとやりながら、このペースなら提出期限までに間に合う、これだけ寝ても大丈夫だと計算した分だけ寝るんだよ。睡眠ベースで課題をするんじゃなくて、課題ベースで睡眠をとるんだよ。」
つまり、毎日6時間寝ながら「頑張ったけど、課題満足いくとこまでできなかったー」じゃなくて、課題満足いくとこまでやって「頑張ったけど、睡眠時間ろくにとれなかったー」ってなれってことだと思う。なるほどなるほど!!なるほど鬼畜!!
で、先生は「自分の体力の限界知っとくって大事よ」とも言ってました。過労で倒れて一日寝込んだら効率は悪くなるわけで。自分の限界を体験して知っとくと、「これ以上休まずにやってるとおれやばいわ」ってことが事前に察知できて、眠いからとかじゃなくて体力を持続させるために寝る、ということができる。うんこれはかっこいい。ロボットみたいでかっこいい。
体力は個人差があるから、週に3回しかベッドで寝ない生活をしてすぐに調子を崩す人は自分なりの必要十分な睡眠時間を確保するとよいのだろう。
実は自分は体力には自信があったので、話を聞きながら「おれは体力ある方なのに必要以上にいつも寝ててクソ野郎じゃんぐもももも」と思いました。
そこで、先生に面談してもらったその日の晩、ふと思い立った。
今晩は徹夜してみよう。寝落ちしないようにいっそ外出しよう。
ここからはその日の夜の行動記録。
家にいると寝ちゃうので、外に出ることにした。夜中の3時頃、pcなどの作業グッズ一式持って近所の24時間営業のマクドナルドに逃げ込んだ。マクドナルドでバリバリ作業して、朝6時頃、そのまま六本木まで行った。マクドナルドでは寝なかった。今日の昼10時から六本木でバイトだったからだ。我ながらバカだった。電車の中では座れた瞬間だけ数分寝た。
六本木についた後、バイトまで2時間くらいあったので、周辺の電源コンセントがあるカフェをググってそこに潜り込んで作業を続けた。結局そこで頭が動かなくなって30分程座った状態で寝た。30分の睡眠でかなり回復したのがわかったので作業を再開し、そのままバイトに突入。徹夜明けで8時間のバイトを無事終えれるか不安はあったが、まあパソコンの前に座ってられるし体力的には大丈夫だろうと思っていたらまさかのイケア製品を7個組み立てるミッション到来。これにはさすがのガストンも驚きを隠せない。それでも黙々とねじを回し、着々とイケアの腕を磨いていくガストン。レッドブルに翼を授けられながら無事バイト終了。バイト中に寝ることもなかった。ただ、イケア後のpc作業中、「起きながら、というか作業しながら寝ずに夢を見る」という奇怪現象を人生初体験した。目の前の作業を確かに進めながら、手を動かしながら、頭を動かしながら、脳の中で意味不明の連想ゲームが止まらない夢想モードに入っていた。誰に教わるでもなく確信できる情報が入ってくるあの感じ。しかも全部1秒後には覚えていないあの感じ。あれは楽しかった。
帰りの電車では座れなかったので寝ることはできなかったが立ちながら目をつむりなるべく何も考えないようにしていた。これだけでもちょっと体力が回復する。
そして家までまっすぐ帰らず、途中でまたマクドナルドに立ち寄って作業した。ここでも不思議と眠気はなく、眠らなかった。
結局この一日でかなり課題が進んだ。寝なかったからではなく、外にいたからだと思う。家にいたら自分は自分に負けるとわかったら外出するのが一番手っ取り早い。
あと、今日こういうことをして思ったのは、寝ないことが大事なんじゃなくて、作業なりなんなりをすることが大事なんだということ。徹夜してたからって、ずっと無目的にネットサーフィンしてたんじゃ効率が悪い。それじゃあ、自習室にこもっただけで
勉強した気になってる受験生と同じだ。ずっと寝てたくせに満足して帰る受験生と同じだ。
単純な話、体力を代償にした分だけ時間を得ることができる。これ結構ローコストハイリターンだと思う。これからしばらく、眠くないのに寝るのをやめようと思う。もし眠くないのに寝よっかな〜なんて気分になったら近所のマクドナルドに逃げ込もうと思う。
実名でブログ書いてたら図星つかれた
おはようございます。もう夏だと思ってロングソックスからくるぶしに変えたけどクーラーが聞いた店内ではまだまだくるぶしが寒いです。ガストンです。
今日は実名を晒してブログを書いてたらおもいっきり恥をかいたお話だよぉ。つらかったよぉ。
1.いいとこ見せたいクソ野郎
なんてったってこのブログでは日々思ったこととかなるだけ正直に書いているわけですが、そうは言っても思ったことなんでもかんでもそのまま書いているわけじゃないです。例えば僕の人生は主に「やる気でねえちくしょう」→「やるしかねえちくしょう」→「やってやったぜ今のおれかっこいいぜ」の繰り返しで成り立っています。で、主にブログに書くのは最後の部分、つまり自分に自信が持てているときだけです。今の自分がどれだけだらけているかなんて書いた所で「こいつクソ野郎だな」とおもわれるだけだからです。そんなの嫌です。周りの人には自分のいいとこだけ見せてたいというのが本心です。もちろん。
だから自分の意見を書く時はその意見に自信を持ってるときだけです。書きながら「ホントは逃げてるだけだよなオレ」とか思いだしたら書くのやめてます。
2.当時は自分でも気づかないバカ野郎
でも、そうやって書くことを選別していたつもりが、過去の記事を見ると「過去のおれバカだな」と思うことがあります。過去のツイートが超絶恥ずかしい経験と同じです。
こないだ、先生にこの上ない図星をつかれました。「こいつ舞台作るサークルでリーダーやったからって調子に乗って、もう自分はグループワークのいろはがわかったつもりになって、最近はオーキャンでも授業のグループワークでも一歩引いて見てるような態度になってる」と…
いやもう死ぬかと思った。これに関する詳しい説明は省略するとして、とりあえず調子乗ってたことを見抜かれたわけです。図星つかれるのってすごくつらい。自分でも薄々気づいててちゃんと反省してるつもりだったのに、誰かに言葉で言われてはじめて突き刺さるものがあった。穴があったら入りたいというのはこういうことを言うんだなと思った。泣けるものなら泣きたいくらいだった。
その先生は僕の書いているブログを読んでいました。僕が前に偉そうに書いた記事も全部見ていました。僕がサークルで代表をやったことも、それで調子に乗っていることも、それ故オーキャンでは全力になっていなかったことも、全部僕が当時何も間違ってないと自信を持って記事にしたことです。バカだからその記事が恥ずかしいことを書いているということに気づいていなかったわけです。全部赤裸々に記事にしてるわけですから、先生がそれを知っていても何もおかしくありません。先生に図星をつかれても何もおかしくありません。
3.それでも続けるガストン
僕はこういう経験は実は多いです。「あのときの君は何を言ってるのかわからなかった」とか「あの頃は、あたし君のこと心配してた(真顔)」とか「あの頃の君はまじでクソだった」とか、本当に言われる度死ぬかと思った。しかも割りと定期的に言われるもんだから、いつまでも僕は未熟なんだなあと思う。自分の意見を綴るブログを書きだしたのも、「もう僕は未熟じゃない。つらいこといっぱい経験して人として成長したから、もう誰かに真顔で心配されるような人間じゃなくなった」という自信があったから。偉そうに自分の意見を記事に書くのも、自分が人としてそこそこ成長してると思ったから。
でも自分なんてまだまだだった。その証拠にこないだ先生に図星をつかれた。今までブログに書いてた記事が僕の無知を晒していたから逃げ場がなくなっていた。言い訳のしようがない。
とてもつらいことではあるが、そういうとき、図星をつかれてよかったといつも思う。言ってくれてありがとうといつも思う。図星をつかれて心から恥を感じてはじめて強く反省できる気がする。自分で黙って過去の醜態を反省するのとは、インパクトが随分違う。痛い図星をつかれた時のことは、誰にどこでどんな口調で言われたか鮮明に覚えている。
結局、「あの頃の君はバカだった」なんていつまでも言われ続けるんだろうと思う。それでもブログは続けようと思う。いつまでも未熟な僕に唯一できるのは未熟なりにあがき続けることだと先生は言ってくれた。後で恥をかくのを恐れて口を閉ざしてもだれも図星をついてくれない。思ったことはメンタルが持つ限り書き続けようと思う。誰かが「君が心配だ、ガストン」と、そう言ってくれることを望んで。(←う、うまい…うますぎる…)