君が心配だ、ガストン。

webデザインを学んでいる理系美大生。

お前そのメモどうすんの

こんにちは!今電車だよ!目の前の席は7人席なのに1人1人が微妙な間を空けて座ってるもんだから6人しか座ってないのにおれが座れないよ!ちょっと先に座ってただけの一人一人が甘い蜜を吸ってるせいで座れたはずのもう一人が座れないよ!まるでこの世の縮図だや!かと言って「詰めて座って頂けますか」なんて言う勇気は後からきたおれにはないよ!言えば座れるのに!空気に負けてどこかで遠慮してるんだね!まるでこの世の縮図だや!ガストンです!


授業とか公演とか講義とかあるじゃん

先生が前で喋ってたりするよね

そんとき、ノート広げてペン持って聞いてる人は多いよね。てか真面目に聞いてる人は大抵そうしてるよね。

真面目に聞いてるけど机の上に何も広げていない人は少ない。

しかし、授業や特別講義などで先生が話す内容をメモる、という行為はどれだけ有効なのか疑問だ。

みんな授業や講義(ここでは、誰かが話す講義型を言ってる。参加型とか実習とかじゃなく)でとったノートってそのあとどうしてんの?


おれ今大学3年で、ノートとるのって結構バカバカしいなと思ってる。なぜか。

1年のときは真面目にノートとってました。例えば、講義系の科目は週に5科目とってた。生物学と心理学とメディア芸術論と美術解剖学と、、まあそんな感じ。

ノートを授業ごとに1冊ずつ、全部で5冊買って、毎日カバンから出し入れするのもめんどいから常に5冊持ってた。

でも、はじめの頃、おれがノートをとろうと思った理由は特にないんだよ。期末のテストで点をとって単位をもらうため、とかじゃなかった。はじめはテストのことなんか知らなかったから。かといって「へえー!おもろいこと聞いた!制作のアイデアに使えそうだ!あとで思い返せるようメモっとこう!」なんて気持ちもなかった。

そう、おれは何かの目的があってノートをとってたわけじゃなかった。「そういうもんでしょ?」と思ってとってたわけだ。先生が前で喋ってる。これは授業。ここは教室。ノートをとろう。
まさに小学校で習ったテンプレートに則っただけだ。体が覚えてた通りにしただけだ。

中学高校の頃は先生が「ここテストでるぞ」とか言ってくれながら授業してたから、ノートをとる意味はあった。記憶媒体として十分に機能してたといえる。

しかし大学で、生物学のノートをとりながらおれはふと思った。
「なんでおれノートとってんだろ。先生はテストにでるぞなんて言ってないのに。見たところ、大学というのはいい加減な場所で、高校のときほどテスト勉強しなくても単位も成績もとれるっぽいし」

ああなんて不真面目な学生なんだろう。いやでもこれはだってこうなるだろ。みんなも感じたろ。

こりゃ、ノートなんてとらなくても大丈夫そうだなと思った。
思ったけど、しばらくは「念のため」とり続けた。「ノート提出」とかあるかもしれない。テストが実は難しくて、ノート持ち込み可とかかもしれない。一応、とっとこう。

というわけで大学でもノートはとり続けた。1年の前期、後期が終わってわかったことは、やっぱりノートはとらなくても多くの授業で単位はとれる、ということだった。テストにノート持ち込み可で、ノートとってないとやばい授業なんかもちらほらあるが。

で、大学2年からは、特に必要だと思わなければノートをとらないことにして今に至る。今では授業ノートなんて一冊も持っていない。

そもそも、「メモっときたい」と思ってもいないのに「念のため」とか「一応」とかって理由でメモをとるのは好きじゃなかった。

そんでね、最近、部屋を片付けてたらね、出てきたわな大学1年ときとってたノート。見るわな。懐かしむわな。ちょくちょく、へえー!と思う情報も入っとる。でもしばらく懐かしんだあと捨てたわな。そら捨てるわな。置いといてもどうしようもない。ノートのはじめ2割くらいにちょっとだけの思い出と情報が入ったA4ノートなんて置いといて何がどうなるとも思えんかった。

明確な目的を持って行われなかった「記録」ほど自己満足になりやすいもんはなかなかないと思うててね。

ノート綺麗に取り出したら、最後まで綺麗に取りたいと思い始めるのと同じでね。あとで思い返すため、とかなんも考えずにだだ綺麗なノートを作ることだけが目的になってたりするよね。そんで綺麗なノートが出来上がると達成感あるんだけど、結局それが次の何かにつながることはそうそうないよね。

周りを見てると、どうも無目的に「そういうものだから」って理由で漠然とノートとってる人が結構多いように思える。

そのノート、そのあとどうするの?おら正直にいろんな人に聞いてみたいが。


もっというと、有名なアートディレクターが特別講義にきて学生にとって目から鱗な話をしてくださったりするよね。そんときにみんながとってるノートは、テストのためとかじゃなくて間違いなく記録として有意義なものになってるはずだよね。

でもこれさえ最近おれは疑問に思えてきてる。

だってみんな、特別講義でとったノート見返したりする?おれはしない。そのままにしちまう。見返さないもんだから、今までたくさんの魅力的な講義を受けて刺激も得た記憶はあるけど、そのほとんどを覚えていない。だからそのほとんどが水の泡になってるな、と思う。

例えば、1年ほど前だったと思うが、水野学さんが学校にきて特別講義をしてくださった際に自分は特別講義に参加してメモもいくつかとった記憶があるが、覚えているのはほんのわずかだ。というか3つだけだ。

覚えてるのは、
「ほんの一握りのデキるデザイナーになるためには、1.本をたくさん読むこと2.海外旅行すること3.作品たっくさん作ること、だ」
ってことくらいだ。

これは、一番わかりやすくて、一番求めていた情報で、一番印象的だった。だからノートにも書いた。でも書いたから覚えていたわけではない。印象的だったからでもない。決定打は、「友達に話した」ことだ。講義の後で、講義に出てなかった友達に、「面白かったよ〜特に面白かったのはね〜」と、話したんだ。この3つだけを。人から聞いた話を友達に伝えると自分の中に再度強くインプットされる。

今でも、誰に、どの店の中で話したか正確に覚えている。ノートを見返すでもなくこの3つだけは未だに覚えている。そして時々ふと思い出して、ちょっとやる気が出てきたりする。

人それぞれ違いはあると思うが、おれの場合、人に話すというのが最も効率的なインプットであると確信している。それ以外は流れるように忘れていっている。

逆に言えば、水野学さんの話を聞いていて、他にも確実にあったはずの「へえ〜!」が今ではすっかり水の泡だ。

他のあらゆる講義も9割か10割が水の泡になっている。水の泡、というのは、聞いている最中は目から鱗レベルの感動や衝撃がありながらも、あの講義をどれだけ「今」に「活かせているか」と問われれば具体的に言えるものは何一つない状態をいう。「へえー!」とは思ったものの「へえー!」止まりだと言えばわかりやすいだろうか。

有名なアートディレクターというとそれだけでお話を聞いてみたい!となるし、聞いてる最中で「へえー!」はたくさんあるかもしれない。でもその中にどれだけ「実際に価値を残している」話があるかといえば疑問だ。聞いていて、確かに「へえー!」と思った。聞き終わって、確かに「聞けてよかった」とも思った。でもそれ止まりだったらどうだ?

取り入れた情報がなんとなーく、自分の知らない間に役立つことなんてない。どことなーく自分の制作に還元されることなんてない。おれはそう思う。受けた講義から、何を学び、何を思い、何につなげられるかをおれはどこまでも明確に自覚したい。

みんなはどうすかね。

見返すことのないノート、山のようにあったりしませんかね。聞いてへえー!ってなって満足しちゃってる講義、山のようにあったりしませんかね。